働く
日本人が働くということに関して持っている意識は独特なものではないでしょうか。
キリスト教では聖書の中で、アダムとイブが知恵の実を食べたための原罪ということで労働を考えています。(創世記第3章)
しかし、古事記では天照大神様が天孫に米を賜ります。そこでは米作という仕事が神様からの恩寵として考えられています。
私は神社のお田植え祭りを拝見したことはありましたが、実際に稲刈りをしたのは先日伊勢の神宮の神田でしたものが初めてです。神様のお米を稲刈りさせていただくことは光栄でしたが、やはり腰をかがめての作業で、また、特異体質なのか稲刈りをするとかゆくなってしまいました。(現在農業はほとんど機械化されていますから、現実の農業はそこまできついことはありませんが。)
昔の農作業の大変さの一部を感じるとともに、昔のお百姓さんも神様のお仕事に携わるという感激をもって仕事をしたのではないかと思いました。
「働く」という字は、国字であり、日本人が発明した字です。
漢民族の皇帝は決して農作業などはしません。また、朝鮮半島の王侯貴族でも同様です。労働が西洋で価値を認められているのは、マックスヴェーバーによればプロテスタンティズムの時代以降になるでしょう。
天皇陛下が実際に農作業をなされるのは、そんなに古い時代のことではないのですが、それを当然と考え、またそこに日本らしさを感じることができるのはすばらしいことであると思います。
儒学では学ぶことを重視していますが、そこを勤勉そして勤労に結びつけたのは日本人のすばらしさだと思います。
日本では江戸時代でも農村では文字を解する人が多く、多くの農書が残っています。考えてみれば渋沢栄一先生などは富農ですが、書き残された論語の解釈や、その他の著作を拝見すると当時の農村の学問的水準の高さを感じさせます。
時代が進み、主要産業が農業から製造業へそして非製造業へと重心を移している今日でも、日本人の根底にある「勤労観」は変化がないと思います。ただ、これも産業の変化によっていくつかの修正をする必要はあるかと思います。
物が少ない時代はいかにして多く作るかが非常に大切なことでした。営業の努力というのは力であり、長時間働くことがすなわち勤勉だったのだと思います。
それに対して現在多くの人々は、ものに囲まれています。日々の日常雑貨以外は買わなくても生きてはいけます。消費不況と呼ばれていますが、このような状況でお客様になっていただく方というのは非常にありがたいことだと思います。
そのためには、お客様が「より快適に、より楽しく、より楽に」なるようにすることが求められています。お客様の目線に立って一番いいサービスは何かを常に考え続けることであり、そのための努力というのは時間ではなく質が重要です。
外資系の消費財の会社が日本から撤退することがあるのは日本の複雑な流通経路もあると思いますが、消費者の意識が他の国に比べてかなり高い(あるいは異なる)気がするのです。
これはヨーロッパ、アメリカ、アジアなどにある程度の期間回ったことの感想でもありますし、一部しか行っていませんがアフリカなどに比べると段違いです。途上国ではまだ、ものが不足していますし、先進国でも日本のサービスはかなり水準が高いと思います。しかし、それだからといって気を抜いてはいけないと思います。
新しい知識・サービスなどを、自分の本質と照らし合わせてその本質をさらに強化できるかという観点から学び取り込んでいくことが求められてくると思います。